真荷舟のジャケット用に掻きおろした絵がほぼ終わった。
古代文字で入れた念。最後に「 生 緑 知 風 」とした。
現代語表記の漢字ではまず ぐっとこないが、
古代文字には 意味を加速させ 滲ませ かつぶっぱなさせる呪力が残存していると思う。
昨日のミクシーでの日記の補足をなんとなく思いついたのだが、
僕がずっとシナリオ化しながら対象化しようと努力していたものは、
潜在的におのれが「ここまでやんなきゃあかんだろ」と思うことの総体であった、
と一言でまとめられそうな気がしてきた。
とってもシンプルだ。
絵にしても文字表現にしても動画表現にしても写真にしても
それをただ「やりたかった」だけだのであり、それをオマージュだか怨念だかオブセッションだか
丸出しで、はんべそかきながら書き綴っていたのだなおれはと、トホホ。
まあそれを実現しだしてくると、
小説も、又逆に商業映画用シナリオもするっと書ける理性をキープできるわけで、
僕はどっかでカムオフしてこんと、
あかんみたいですな。
カムオフ!カムオフ!
10,000人のmiru/補足用
miru1.0 :1分1カット無音 / ZO 「miruことから始めよう」
「ルール:1分1カット無音」で、あなたのZOを撮影する。
まず、あなたのZOを探すことからスタートします。
ZOとは像です。私たちはどうしたら映像をより身近にできるだろうか考えました。
(1cut=カット割りなし、ノーカット。1分間の連続撮影です)
まず、あなたのZOを探すことからスタートします。
ZOとは像です。私たちはどうしたら映像をより身近にできるだろうか考えました。
映像を作るということを最もシンプルにすると、
miruという大和言葉にしかいきつきませんでした。
そして、映像は「像を結ぶ」ということに辿り着き、それを形象をも意味する象とも掛けて、
ZOとアルファベットで呼ぶことにしました。
なによりも現代、YouTubeにしろ、携帯動画にしろ、VideoCastにしろ、決定的にないのは「ルール」です。
俳句であれば575という絶対的なルールがある。けれど、映像にはなんにもない。
これでは素人は表現できません。
そしてどうすれば操れるようになるのかという、
ピアノのバイエルのようなものもない。
あるのはマニアや専門家の為のものばかり。
miruプロジェクトは、映像を作る為の、
そしてそれを国際的にシェアし、分かち合えるための
ルールとテーマを作りました。
更に日本文化史のあらゆるコードへと遡りながら、
私たちはあらたなものを今後も生み続けてゆきます。
2008年3月20日
2008年3月18日
補足03:広告写真とアート写真について
miru blog 00003には長くなりそうで書けなかったので、
ここで広告写真という仕事と、一人のアーティストとしての写真を撮るという行為の
「あいだ」のことを考えてみる。
僕は実家が広告写真スタジオだった。
内の父は「写真=食い扶持」という、今となっては哲学といってもいいだろうとすら言える、
頑固な主義を持っていて、「金にならん」からと、僕の赤ん坊の時の写真も家族の写真も撮らなかった。
仕事を家庭に持ち込みたくはなかったのだろう。・・・それは今は否定しない。分かりもする。
15で東京に上がり、錦糸町の写真館を経営していた親戚のうちで住み込みで働いていた父。
そしてそこで銀塩式のカメラで進駐軍の記念写真撮影(!)から始め、
人の結婚式や学校の入学や遠足などの写真、七五三、その他式典での集合写真などを撮っていた父にとって
写真とは、戦後の荒涼とし殺伐とした社会を生きるための武器だったのだと思う。
長野から裸一貫で出てきて、家族と社員を食べさせるためものだった。集合写真を撮る父は、まるで芸人のようだった。
現在の写真の置かれている位置はかなり違う。「クリエイティブの在り方は」といってもいいかもしれない。
どう違うのかと問われれば、イマイチ理屈立てて説明できないが、感覚として まったく違うのだ。
その差異は「自己表現」というものに一貫して関わっているだろう。
父には自己表現などというタームはおそらく皆無だった。そこを機械人間のようにかんじてもいた。
ふるくさい大きなごっついマミヤとかハッセルとかのカメラや照明機材と、ほんとうに臭くて嫌いだった酢酸の暗室。
それがデジタル以前の写真というメディアへの僕の印象だった。
デジタルになって父のような古いタイプの写真は廃れた。まわりの印刷屋さんたちもだいたいが倒産した。
写真はより簡易になり、「アタリマエ」になった。今や携帯でも600万画素とかある時代。
トイカメラの出現などもあって、写真というメディアは逆に「剥き出しの表現力」が問われるようになった。
プロのカメラマンは常にそういった技術的には半ば素人のような写真家たちの「表現」に怯えるようになる。
ある人気の出た女性カメラマンは「フルオートで撮る」とインタビューでいっていたけども、
古めかしい技術論など、中高年の愛好家たちだけのものになったとさえいえる。
商用写真はデジタル化とカメラの感度そのものの飛躍により、素人同然のカメラマンでも撮影可能になり、
それだけ撮影のギャラ自体下落したという余り知られていない流れがある。
そんななかで創作写真を撮り続けるという行為、しかも商用としての写真とは違うものを撮るということ、
それは勇気だ。一方でプロフェッショナルとしての技術もなくてはならず、又剥き出しの感性も磨かなければならないという二律背反。
映像という道で同じようなことを悩んでいる僕には、どこかで痛切に感じるものがある。
もっとも僕にとっては、後者つまり「剥き出しの感性」をこそ、映像化するべきだという悩みだったが。
少しだけ、僕の話をする。僕は映画という世界のなかに憧れて生きてきた。
そのなかで僕の「自己表現」という道はないのではないか?という漠然とした恐怖をある時から抱いてしまった。
それは「甘い」と高名な講師たちに叩き続けられた。そんなものは全部おまえの「自己愛」だとも言われた。
それでもなにか違うのではないかという意識は拭えずに、「アートって、そんなものかよ」って一人でふてくされてたものだ。
写真学校を中退して映画の学校に入った僕は「スナップ写真のような映像を撮れないか」とずっと模索していた。
いや、そうとすら言語化できていなかっただろう。ただ、なにかひっかかる違和感を抱いていたというほうが正しい。
だが物語を作らなきゃという恐怖感が内面を100%に満たした。物語・・・物語・・・
ビデオは当時はかなり夢のマシンだったSONYのVX1000を買わずになぜか手に入れていたから、撮ればよかったワケなのだが、
その「一歩」がまるででなかった。実際は感覚で動いていながら、動き出すために理屈を必要とするという性癖を持つ僕は、
ドツボにハマった。難しい映画論なんかを読み漁ったり、文学を読みふけったり、ドゥルーズとかフーコーとかを
齧ってみたり・・・けども、どこにもヒントがなかった。
それからというもの、様々なバカなことをした。
それがmiruを生むためのエネルギーになったといえる。
ここで広告写真という仕事と、一人のアーティストとしての写真を撮るという行為の
「あいだ」のことを考えてみる。
僕は実家が広告写真スタジオだった。
内の父は「写真=食い扶持」という、今となっては哲学といってもいいだろうとすら言える、
頑固な主義を持っていて、「金にならん」からと、僕の赤ん坊の時の写真も家族の写真も撮らなかった。
仕事を家庭に持ち込みたくはなかったのだろう。・・・それは今は否定しない。分かりもする。
15で東京に上がり、錦糸町の写真館を経営していた親戚のうちで住み込みで働いていた父。
そしてそこで銀塩式のカメラで進駐軍の記念写真撮影(!)から始め、
人の結婚式や学校の入学や遠足などの写真、七五三、その他式典での集合写真などを撮っていた父にとって
写真とは、戦後の荒涼とし殺伐とした社会を生きるための武器だったのだと思う。
長野から裸一貫で出てきて、家族と社員を食べさせるためものだった。集合写真を撮る父は、まるで芸人のようだった。
現在の写真の置かれている位置はかなり違う。「クリエイティブの在り方は」といってもいいかもしれない。
どう違うのかと問われれば、イマイチ理屈立てて説明できないが、感覚として まったく違うのだ。
その差異は「自己表現」というものに一貫して関わっているだろう。
父には自己表現などというタームはおそらく皆無だった。そこを機械人間のようにかんじてもいた。
ふるくさい大きなごっついマミヤとかハッセルとかのカメラや照明機材と、ほんとうに臭くて嫌いだった酢酸の暗室。
それがデジタル以前の写真というメディアへの僕の印象だった。
デジタルになって父のような古いタイプの写真は廃れた。まわりの印刷屋さんたちもだいたいが倒産した。
写真はより簡易になり、「アタリマエ」になった。今や携帯でも600万画素とかある時代。
トイカメラの出現などもあって、写真というメディアは逆に「剥き出しの表現力」が問われるようになった。
プロのカメラマンは常にそういった技術的には半ば素人のような写真家たちの「表現」に怯えるようになる。
ある人気の出た女性カメラマンは「フルオートで撮る」とインタビューでいっていたけども、
古めかしい技術論など、中高年の愛好家たちだけのものになったとさえいえる。
商用写真はデジタル化とカメラの感度そのものの飛躍により、素人同然のカメラマンでも撮影可能になり、
それだけ撮影のギャラ自体下落したという余り知られていない流れがある。
そんななかで創作写真を撮り続けるという行為、しかも商用としての写真とは違うものを撮るということ、
それは勇気だ。一方でプロフェッショナルとしての技術もなくてはならず、又剥き出しの感性も磨かなければならないという二律背反。
映像という道で同じようなことを悩んでいる僕には、どこかで痛切に感じるものがある。
もっとも僕にとっては、後者つまり「剥き出しの感性」をこそ、映像化するべきだという悩みだったが。
少しだけ、僕の話をする。僕は映画という世界のなかに憧れて生きてきた。
そのなかで僕の「自己表現」という道はないのではないか?という漠然とした恐怖をある時から抱いてしまった。
それは「甘い」と高名な講師たちに叩き続けられた。そんなものは全部おまえの「自己愛」だとも言われた。
それでもなにか違うのではないかという意識は拭えずに、「アートって、そんなものかよ」って一人でふてくされてたものだ。
写真学校を中退して映画の学校に入った僕は「スナップ写真のような映像を撮れないか」とずっと模索していた。
いや、そうとすら言語化できていなかっただろう。ただ、なにかひっかかる違和感を抱いていたというほうが正しい。
だが物語を作らなきゃという恐怖感が内面を100%に満たした。物語・・・物語・・・
ビデオは当時はかなり夢のマシンだったSONYのVX1000を買わずになぜか手に入れていたから、撮ればよかったワケなのだが、
その「一歩」がまるででなかった。実際は感覚で動いていながら、動き出すために理屈を必要とするという性癖を持つ僕は、
ドツボにハマった。難しい映画論なんかを読み漁ったり、文学を読みふけったり、ドゥルーズとかフーコーとかを
齧ってみたり・・・けども、どこにもヒントがなかった。
それからというもの、様々なバカなことをした。
それがmiruを生むためのエネルギーになったといえる。
2008年3月15日
補足記02
後藤さんのをアップし終えた。
今日は友緒夫婦がカメラを狩りではなく借りにやってきて
おもってもみず長話しをしてしまった。
というのも彼らもmiruの出品者なので、
そのストーリーを聞いていたのだが、それが又おもしろいのなんの
おもわずききいってしまった。
おれがオモロいとおもうんだから、
これは間違いない。
そんなかんじで後藤さんのを軽くやっつけてアップしようと
思ってたのが、ドツボの入り口。
詳細はまあミクシーの日記なんかに書いたけども。
さて、あんなかんじでアップし続けたら、
本業の昼子さんの詩作なり思索が ヤヴァイ。
あれはかなり気合いの要る文章構成技術が求められるのだから。
そして今月末に短編を一本あげねばならない、
ジャケットのえとでざいんもあげねばならない、
さらにさらに・・・・・
うっへーーー
うっへーーーーー
後藤さんは かなり泣きそうだったw
昼子
今日は友緒夫婦がカメラを狩りではなく借りにやってきて
おもってもみず長話しをしてしまった。
というのも彼らもmiruの出品者なので、
そのストーリーを聞いていたのだが、それが又おもしろいのなんの
おもわずききいってしまった。
おれがオモロいとおもうんだから、
これは間違いない。
そんなかんじで後藤さんのを軽くやっつけてアップしようと
思ってたのが、ドツボの入り口。
詳細はまあミクシーの日記なんかに書いたけども。
さて、あんなかんじでアップし続けたら、
本業の昼子さんの詩作なり思索が ヤヴァイ。
あれはかなり気合いの要る文章構成技術が求められるのだから。
そして今月末に短編を一本あげねばならない、
ジャケットのえとでざいんもあげねばならない、
さらにさらに・・・・・
うっへーーー
うっへーーーーー
後藤さんは かなり泣きそうだったw
昼子
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